美麗島から世界へ──台湾小説家の創作観
 
 
 
 
陳蕙慧::

本日こちらに来られたのは、勿論、文芸基金会、文訊雑誌社、そしてこの場所を提供して下さった台北駐日経済文化代表処の台湾文化センターの協力のおかげです。とても感謝しております。壇上にいらしゃっている六名の作家をご紹介いたす前に、まずは、こちたの台湾文化センターの郭重希副代表にご挨拶をお願いします。

郭仲熙副代表:

皆様、こんにちは、ようこそいらしゃいました。季節が一段に深まるところ、本日、この芸術の秋に相応しいイベントを開催することに、誠に心からお喜びを申し上げます。日台作家の皆様は、一堂に会して、素晴らしい火花を打ち上げることを楽しめております。台湾と日本はですね、海で経たれておりますが、でも、双方の国民の心はずっと結ばれております。その絆は、日月に変えることはなく、引き続きに発展しつづきます。実は、文学の世界に、脈々と繋がっております。それは、政治的な民主、人権などの価値を共有しているだけだはなく、文学の世界では、実は日台共通している部分は色々とあります。例とあげますと、俳句の世界では、松尾芭蕉の俳句:「古池や蛙飛びこむ水の音」と「名月や畳の上に松の影」、その二つの俳句は和美とさびの世界です。実は、文学にも、和美とさびの世界があります。例をあげますと、「明月松間照,清泉石上流(明月の光が松の間に降り注ぐ、泉の水は石の上に流れていく)」。この漢詩は、さきの松尾芭蕉の俳句と同じ「詩のこころ」を通じています。もう一つは、宋の時代の楊万里という詩人が書いた詩「清堂無店亦無人 只有青蛙蚯蚓聲」は松尾芭蕉の俳句「古池や蛙飛びこむ水の音」と同じ「詩のこころ」を通じています。ですので、台湾であれ、日本であれ、共通している部分は文学にあります。今日のようなイベントですね、日台双方の作家の皆さんの意見交換という交流に通じて、さらなる深い文学交流と緊密な日台関係を促進できることを期待しております。是非この交流に通じて、先人たちが築いた歴史と伝統を超えて、新たな世界と価値を創り出すと願っています。今回のイベントの開催成功をお祈りいたします。どうもありがとうございます。

陳蕙慧:

ありがとうございかます。それでは、台湾の国家文化芸術基金会の孫華翔副執行長にご挨拶をお願いします。

孫華翔:

郭副代表、朱主任、壇上の作家の方々、林水福教授、天野健太郎先生、皆さん、こんにちは。もちろん、今日こちらにいらっしゃった日台読者の皆さん、こんにちは。本日この東京文化センターという場所をご提供いただいて、誠に感謝しております。これ(イベント)を機掛けに、台湾の小説をより日本でいろいろ魅力を発信してけると私は思います。国家文化芸術基金会は、成立してからもう21年に経ち、主に台湾の芸術家の創作、展覧、演出を支えております。2015年に台湾の民間組織や会社と協力して、台湾の芸術家を国際舞台に活躍させることに取り組んでおります。文学の分野では、台湾の文訊雑誌社という文学の専門雑誌社、共に協力して、「小説引力」という中国語ステージを作って、中国語文学を世界に発信しております。今回は、とても優秀な三名の台湾作家の方をお連れして、蔡先生、呉先生、巴代先生と一緒に東京に来て、日本の出版社界と文学界を交流しております。昨日は八重洲ブックセンターでとても成功なイベントを開催しました。驚いたのは、台湾の作家は、日本にこんなに多くのファンを持ていることです。本日主なイベントは、台湾の三名の作家は、翻訳者との対談です。文化の魂とは、言葉ですね。台湾の作家はその言葉を訳す翻訳者と対談することが、とても期待しております。今回出版社との交流によって、台湾の文学の東アジアの視野を広げて、そして日本の皆さんにも台湾の文化をご紹介したいと思います。ありがとうございかます。

陳蕙慧:

それでは、台湾で35年の歴史を持っている文訊雑誌社の封徳屏社長にご挨拶をお願いします。

封徳屏:

本日、各代表の方々、そして皆さん、ありがとうございます。文訊雑誌社です。私たち、台湾の文学記録を保存する共に、文学家を世界に紹介するのは、大切な仕事と思います。この三年間、香港、マカオ、シンガポール、マライシア、上海、そして北京にイベントを開催して、今日は東京で皆さんにお会いします。今後も、引き続き努力していきたいと思います。今日、来てくださっている方々、そして協力してくださる方々、ありがとうございます。

陳蕙慧:

それでは、三名の台湾作家と訳者の対談を今日のテーマとして、紹介させていただきます。対談を始める前に、まず、壇上の六名の講演者を紹介させていただきます。そして、郭副代表は、次のスゲジュールがございまして、イベントを正式に始める前に、皆さまと一緒に記念写真を撮影しましょう。続けて、本日の発言順番をご紹介します。まずは、部落歴史文化の研究者であって、小説家でもある方です。相当の高度と詳細な現地調査に通じて、歴史も基づいて小説を創作し、台湾だけではなく、海外でも無数の読者を魅了しています。巴代先生を歓迎しましょう。そして巴代先生と夏曼藍波安先生の作品の訳者•魚住悦子先生をを歓迎しましょう。次は、小説に独特な世界観があり、深い文字表現を追求していてすでに世界的な文学舞台を活躍されている呉明益先生を歓迎しましょう。そして、呉明益先生の『歩道橋の魔術師』、ミステリ類の小説など、様々なジャンナルの小説を訳している訳者•天野健太郎先生を歓迎しましょう。そして、編集の仕事の傍ら、小説を創作している蔡素芬先生をご紹介します。蔡先生の小説の中に、女性ならではの独特な観点に通じて、一般の市民の日常生活を絵描いていて、多くの読者を感動させています。それでは、林水福教授をご紹介します。林先生は台湾で有名な日本文学の研究者で、現在は台湾の南台科技大学という大学の教授です。林先生は文学の研究だけではなく、日本の文学作品の翻訳も携わています。最後は本日の通訳で早稲田大学文学学術院の講師•張文菁先生です。皆さんのご存知のように、翻訳に通じて文学の世界も広げていくのです。翻訳という仕事は、決して容易ではなく、本日のイベントに通じてあとは皆さんに理解していただきたいと思います。それでは、皆さんと一緒に記念写真を撮りたいと思います。本日、台湾の文学に関心を持っている方々もたくさん出席していらっしゃると思いますが、時間の関係で、一名一名ずつご紹介していくことができませんが、本当にありがとうございます。そして、本日の座談会を正式に始めると思うます。台湾の作家が自分の創作観を述べていただくと共に、訳者の皆さんが本を訳している際に困難や心得もお伺いしたいと思います。まずは、巴代先生からお願いします。

巴代:

代表の方々、そして今日ご出席くださる皆さま、こんにちは。台湾の卑南族の作家の巴代と申します。実は、私の漢語名は林二郎です。漢語名の二郎というのは私の家族は日本統治時代では、多くの家族は日本の会社や組織で働いたことがあるからです。私の一番上の叔父と二番目の叔父は高砂義勇隊に入ったことがありました。私の父親は、二次大戦のころに、日本士官の伝令兵です。私の家族の歴史は、私の創作にはあまり関係がないですが、私の名前と関係があるます。ただ皆さまに親しみを感じてもらいたいだけです。私の創作は、実は1999年から始まりまして、どうやって小説を書くのを勉強しておりました。本格に小説を書きたいのは、2006年からです。その間に22編の短編小説を書きました。2006年の後半から、長編小説の創作を専念しておます。2007年以降、大体毎年一冊、二冊の長編小説を完成しております。短編小説では、私の部落の台湾における状況を主に表現してたいと思います。もしくは、いま台湾の社会は、原住民との間には、どのような衝突があるのかということを表現したいです。しかし、私はいつも自分のことを部落の文化と歴史の研究者、そして小説家としておりますので、私の長編小説は短編小説とは違い、別のテーマがあります。ですから、私の長編小説の内容は部族の文化、歴史に取り込んでいて、恋愛まいでの話もあります。例えば、私の第一部の和訳された小説『タマラカウ物語〈下〉戦士マテル』(《馬鐵路》)、この小説では、1917年大戦のころに私たちの部落の話を絵描いております。このような時代の中で、部落の少年の成長の道、愛情、戦争、そして特にその大時代における私たちの部落の生き方を絵描いております。もちろん、この小説では、部落の人はどうやって日本人の警察を騙し、別の部落をいじめるということも書いております。しかし、政治を分かっていらっしゃる方なら、この小説を読めば、実は現在台湾の政治状態を書いていることが分かる。

また、最近、二冊の小説を完成しておりました。その一冊は、1871年琉球で殺された宮古島人のことを背景として、『暗礁』という小説で、もう一冊は1874年、日本はじめての海外出兵という「征台の役」を背景として、『浪濤』という小説を書き上げました。でも、実は、日本は1807年に新式の陸軍を編成したことが知らなかったです。この「征台の役」という事件は、通常は牡丹社事件と言われている。歴史研究の中では、この事件について主に日本が琉球に対して統治権を取得してことに集中しております。しかし、小説家として、ただ歴史事件を改めて別の視点で解釈することに満足できない。ですから、私はこの小説で多くの時間をかけて、宮古島人が遭難事故に見舞われてそして殺されたその間の心理状態を絵描いております。それに対して、私も色々と努力して、その宮古島人を殺した台湾族の原住民はどのような状況でどんな風に考えて人を殺したのかについて絵描いております。この事件で、西郷従道は3600人くらいの兵士を率いて台湾に出兵したことについて、実は、私、あまり関心していないです。私が重視したいのは、その浪人武士は、戦争で新たな功績を立てて、心の状態はどんな風に変わっていくのです。さらに、台湾族の戦士たちはどのような状況で日本軍を対抗しなければならないということです。この小説は、台湾の年度「open book」という賞を受賞しておりました。しかし、私が言いたいのは、こんなに素晴らしい小説をどうしたら日本の読者に推薦できるのか、もちろん、翻訳者の力が必要です。私の短編小説の四編や六編くらいは草風館に出版していただいて、長編小説では、松本杏子先生が訳してくださいました。2012年以降、天理大学の下村作次郎先生は、私の作品に関心を持ち始めていした。ですから、下村先生が、私の本を訳すと可哀想な魚住先生を指定していました。そして、魚住先生に『タマラカウ物語〈上〉女巫ディーグワン《笛鸛》』と『タマラカウ物語〈下〉戦士マテル』を訳していただきました。もし、順調であれば、さっき言った『暗礁』という新作も魚住先生に訳していただき、来年、草風館に出版していただきます。どうしてこの話をしたいのは、この本は台湾の国家文化芸術基金会に資金支援をいただいたんです。そのほかに、この本を訳してくださった魚住先生は、かなり低い報酬を受け取りました。先生の方々は、こんなに協力してくださったのは、単純に日本と台湾の文学交流に力を尽くしたいのです。ですから、私たちが共に思っているのは、もし台湾の文化部や国家文化芸術基金会が訳者に対して報酬をもう少し上げてくださえば、私たち作家ももっと素晴らしい作品を創作して、日本または他の国の読者に紹介すると思います。一つ皆さんに報告したいのは、私たち台湾の作家は、文学に対して凄く情熱を持って、一生懸命働いているんです。ですから、私、毎日の午前、午後では三時間をかけて、夜では二時間をかけて小説を創作していてます。こうして毎年、新しい作品を出版することを確保しますように、頑張っています。たくさんの時間を取ってしまい、時間の関係でここで終わらせていただきます。自分の創作について、そして翻訳者の苦労について皆さんに話すことができるのはとても感謝しております。

陳蕙慧:

2007年私は麦田という出版社で働いているとき、『タマラカウ物語〈上〉女巫ディーグワン《笛鸛》』を出版しました。それから十年を経ち、その十年間、巴代先生は11冊の小説と、一の小説集を出版して、その同時、二冊の学術研究の本も出版しました。この出版数から見ると、巴代先生は、まさに文学創作の苦労者とも言えます。次は、魚住先生に話をお伺いします。

魚住悦子:

魚住です。いま私は台湾の原住民に関連する本を翻訳させていただきますが、中では霧社事件は、翻訳から聞かれていました。ちょっと考えてみれば、私は霧社事件を翻訳するとき、台湾の諸民族の中に、その原民族や部落の歴史により関心を持つ。それで、巴代さんの本の翻訳を始めようと思ったのは、実は、下村先生の指導を受けたんです。自分で翻訳を選らんだんですけど、自分が選ばれたと思いますけど。その前に、翻訳したのは、理解が合う排湾族と漢民族のダブルの女性作家の作品です。それは短編小説です。この『タマラカウ物語〈上〉女巫ディーグワン《笛鸛》』と『タマラカウ物語〈下〉戦士マテル』は二冊で出版しましたが、凄く長編小説ですね。これを実際に読んでみると、凄く面白いです。私が訳したい作品は、まず面白いものです。もし面白くなかったら、訳す気持ちがないですね。それで、読んでみたら、卑南族だけではなく、漢民族とか、日本人も出てきます。実は日本人って、その原住民に関連の作品の中で扱ったのは、日本人が会合しているというところ、翻訳するとき、すごく感情が湧いていくのです。つまり、私が台湾に魅了されているものは、巴代さんの作品にたくさんあります。私は歴史が非常に好きでして、色んな歴史小説も読んでいて、ずっと昔から田辺聖子さんと司馬遼太郎さんの作品が好きで、その作品は本当に面白すぎで、本当とは思えないです。実は、巴代さんの作品も面白すぎで、本当とは思えないところがたくさんあるんです。でもこのところは架空ではなく、ちゃんと基礎になる資料があります。例えば、日本の台湾総督府からの資料に基づいたんです。巴代さんはこの資料によって、この話を面白くさせて内容も深く興味があります。もう一つは、私が台湾に触れているようになったのは、かなり遅くて、漢民族の作品もあまり知らないのうちに、原住民の作品に出会ってしまったそのときに思ったことは、原住民の作品は色々と面白いです。私たちのような人類学者が書いたのは、研究書しかありませんが、真面目に書いたもので、一般な読者に理解してもらえるのか、実に難しいです。その意味で、この『タマラカウ物語』では、いろいろ民族がいて、日本の読者が楽しく原住民の歴史と文化、それから日本人による一面と日本人に対する歴史に返すことができると思いますので、これからもよろしくお願いします。

陳蕙慧:

魚住先生、ありがとうございます。時間の関係で、日本語から中国語の通訳は致しませんが、申し訳ございません。魚住先生の話を聞いていただいたとき、魚住先生は、本当に巴代先生の作品が好きで、下村先生に言われて翻訳を始めたのではないです。大切なのは、巴代さんの作品は面白いだけではなく、巴代先生は色んな資料を集めて面白い小説を書き上げたんです。それは魚住先生にとって、一番大切なことです。それでは、呉明益先生にお願いします。

呉明益:

本日ここに来られたことは、とても嬉しくと思います。前回日本に来たのは、『歩道橋の魔術師』の出版のためです。今日のような正式な場所は、とても苦手ですね。ですが、台湾の政府は、私の作品に対して、色々と協力してくださいました。とても印象深いのは、フランクフルトのブックフェアに行ったときに、今日のような場面を想像しましたが、結局、台湾の駐ドイツ代表は最初の挨拶で三ごとだけおっしゃったんです。パーティーのときに、皆はお酒を持っていて、代表に「ありがとうございます」と言いました。私にとって、日本はとても大切な場所です。一つの原因は、私の父親の関係で、もう一つは日本は私の文学の根源です。私の父親は1943年から1945年の間につまり十三歳のとき、少年兵ちとして、日本で戦闘機を作る仕事をしていました。しかし、父親は実は私にそうなんことを一度も言っていなかった。2007年に彼が亡くなったあと、引き出しからその写真を見つけて、以前少年兵であったことが分かりました。ですから、いままで私が書いた二つの長編小説の中、その一つは父親に関する話で、もう一つは少年兵に関する話です。『自転車泥棒(《單車失竊記》)』の中でも、日本が東南アジアでの戦争でマライシアを侵略したことを絵画いております。今日の短い話のなかで、一つ大きなテーマについてお話したいと思います。それは「何か小説」ということです。若い時は、私はリアリズムにかなり大きな影響を受けたんです。当時の私は、「小説とは、声無き人が自分のために声を出すために書いたものだ」と思いました。しかし、そういう考え方は、同情という気持ちで、傲慢の嘘でもあります。そして、私はよく聞いたのは、「小説の一つ特点はフィクションです」ということです。しかし、フィクションは、偽りと嘘とは、別のものだと思います。偽りの人道主義には重いがないですと分かるようになりました。フィクションの中には、ある程度の嘘があるます。なぜならというと、真実の人生を維持するために、ある程度の嘘が必要とされます。台湾の小説家•黄春明先生は自分の祖母のことについて少し話したことがあります。黄先生の祖母は、焼きイカ屋の商売をしていました。イカは十本の足がありますので、その祖母は、いつもイカの足を一本を切り取ってから、客に売ります。なぜならというと、客はイカの足が一本が足りないということが気付かないし、そして、イカの足をある程度の量を集めてから、また客にイカの足だけを売ることができますから。祖母がこうなんことしたのは、嘘を付くのためではなく、生きるのための努力なんです。私はもう少し年を取ってから、ある素晴らしい小説家の方々が「小説というのは、真空のなかに起こしたものです」と言ってくださいました。イタリアの小説家•ウンベルト・エーコ(Umberto Eco)氏が「私は、あの自分のために小説を書く三流の作家とは違う」と言ったのように、なぜならと言うと、人々があらゆる文字を残すのは、自分のためではなく、ほかの人に読んでもらいたいためのですから。そして、私は創作するうちに、小説というのは、私たちを遠い彼方に連れていくものとういことをだんだん分かってきました。なぜならと言うと、人類はまだ深海に行けなかったとき、小説の世界ではすでに深海に行きましたし、人類はまだ宇宙に行けなかったとき、小説の世界ではすでに宇宙に行きましたということなんですから。私たちは、小説を読むのは、どうやって嘘をつくのかについて学ぶのではなく、それは、子どもにもっと遠い彼方に行けるような想像力を養うなんです。カナダの作家•マーガレット・アトウッド(Margaret Atwood)は、小説の書く目的は四つがありますと言いました。その一は財宝を獲得すること、二つ目は知識を獲得すること、三つ目は悪のモンスターと戦うチャンスを与えること、そして四つ目は失った愛する人を取り戻すことです。その四つの目的の中で、私は一番好きなのは三つ目の「悪のモンスターと戦うチャンスを与えること」です。子どものころに、よく「科学忍者隊ガッチャマン」を見ていました。毎回の話はモンスターを倒れて地球を救うことです。毎日ほぼ同じような話ですが、でも彼らがまた地球を救うという話にすごくハマっていました。若いとき、小説を読むたびに私は人を助けてあげたいと思っていましたが、いまの私にとって、小説を書くことは、私自身を救いたいです。なぜならというと、小説を書くことは、実は大変な創作活動です。人の心や気持ちを絵描くのは非常に難しいと思います。

私が尊敬している日本作家芥川龍之介の言葉に「人生とはマッチ箱に似ている」というのがある。なぜか、「重大に扱うのはばかばかしいが重大に扱わないと危険である」から。ですので、小説を書く人は、一つ一つの物語で、自分の人生ではない他人の人生を慎重に対処しています。昔、私は小説を書くことは、書斎での活動しかないと思いましたが、今の私にとって小説を書くことは体の運動でもあります。「もしあの島の海水を見たことがなければ、その島について絵描くことがでない。」最近、私は新しい短編小説を書いています。これは、人と動物の間の物語です。その中の一つ話は、台湾雲豹の話なので、この話を書くために、私はわざわざ時間をかけて台湾の北大武山に登りました。もう一つは、「木に登る人」という職業についての話です。ですので、この夏は、私は木登りを学びました。私、自分の小説の世界についてきたいので、自分の小説も読者たちを色んなところにつれていて欲しいです。どうもありがとうございます。

陳蕙慧:

私はこう信じております。こちらの三名の小説家が書かれた文字を読んで、私たちは、確かに遠い彼方につれられていきました。歴史の小説でも、現代の小説でも、あるいはフィクションやリアルの物語でも、私たちは、確かに遠い彼方につれられていきました。先ほど呉先生の話を聞いて、私は、皆さんが呉先生の小説を読むとき、できれば声で読み上げたらいかがでしょうとお薦めです。次は、LLC代表で翻訳者でもある天野健太郎先生にお話をお伺いしたいと思います。

天野健太郎:

ご紹介あるがとうございます。呉明益先生の『歩道橋の魔術師』の翻訳者•天野健太郎です。主な担当は翻訳することで、今日は翻訳の話をします。前提としては二つ。先に言うと、翻訳という訳者は作者というのは全然違うのです。原稿者を見たことなく、パソコンのワープロによって字を打ってM出版者に出して原稿料になり、印税をいただくのは同じですが、「実は違う」というのは最近の話です。何が違うのかというと、作家は有名である。有名っていうのは、誰でも知られているって意味もあるけど、たとえば本を出して三百ページしかないが、彼らは自分に力で作品をゼロから作って公開したのが作者(作家)。訳者は違う。訳者は無名です。無名というのは名前がない。「アメトーーク!」という番組が知ってる? この番組で子どもに『歩道橋の魔術師』を紹介し、呉明益氏の名前も出るし、でも訳者の名前が出ないんです。訳者の名前は読まれない、でも著者の名前は読まれる。訳者の名前を覚える人はあまりいない。この五年間、翻訳して報酬というのは、最低報酬です。作品がよければ、著者のせい、悪ければ、訳者のせい。「あ~翻訳者がだめです」とは変わらない。その最低報酬という風にはと思います。例えばの話ですね。例えば、呉明益が七十歳のとき、突然小説を書いて、長編小説の途中までに書いて病気で亡くなったら、この作品を出るわげじゃなくて、絶筆作をして、それに対して、僕は六十歳くらい、呉明益さんの作品を訳していて家で亡くなったら、それは絶筆作ではない、有名性とか、無名性とか、私たちはあくまで訳者です。もっと言えば、業者ですよ、できれば当たり前、できなければハズレ、というところで、翻訳は商売です。作家は、さき言ったように、彼らは自分の世界を書いていてその作品を産出したひとは、作家です。僕らと聞くのは、翻訳です。その無名性の中に、素晴らしさを考えています。我々は、名前がないという風には、読者とは近いです。著者はやばり名前がある。著者の名前が残る、訳者の名前は残らない。でも、作品は残りますっていう話です。それは一つ。

二つ目は、翻訳って裏切り声と思います。テキスト(原稿)というもの、中国語でも、日本語でも、作家が書いて元々完全なものです。でも、翻訳はその原稿を完全に訳すのは、現実に無理です。ですから、翻訳はその現実の状態で、原稿を訳しているのです。我々訳者は、読者に近い。訳すとき、その言葉が優れるか、優れないか、美しいか、美しくないか、その前に作者の作品です。例えば、いぎなり別の作家の名前を出てきますが、東山彰良さんの直木賞を取った作品『流』、これは七十年代や八十年代の台湾を背景として書いた小説。この中では、「僕が殺した人と僕を殺した人」この言葉を読んで、私の個人の考えですが、わりと何の脈もなく、わりと著書感がなく、中国語を使う。でも、これは問題にならない、なぜかというと、彼は作家だから。彼はこいう風に世界を捕らえてその風に創られたから。中国語で例えば、出てきたとしても、許されると思います。 でもそんなこと、訳者では絶対にやってはならないです。なぜなら、私たちは著者ではないからです。私たちが作品を訳しているとき、訳語ではの普通の喋りの中で、ことばを見つけなければならないです。もっと言えば、さきいったのように、翻訳の不完全性です。実際には著者の作品があって、台湾の読者があって、訳すとき、ひとまず、著者がどうやってこの作品を書いたのか、それは理解しなければならない。しかも、台湾の読者がどう読んでいるのか。というのは、理解しなければならない。さらに、日本の読者がどう読んでいるのか、とういのも考えています。最低の三つめ目視点は作品を読んで評価する。すなわち、視点を捕らえて、何を翻訳する。言葉を選ぶのが多分必要だと思うんです。

なぜ不完全性があるのか、呉明益さんの作品のやんちゃな中華少女の部分を例えばすると、彼女の恋人の名前は「阿(ア)猴(ホウ)」ってサルの意味です。私が訳すとき、カタカナで処理して、実際にそのあと罠となったのです。ある事件で、彼の名前が出てきした。それは彼が社会の新聞で出て、彼の姓名があった。彼の姓名は、「侯」です。よって、「ア•ホウ」とは、実は二つの意味があって、一つは「サル」、もう一つは彼の姓「侯」です。そして、何回も直しましたが、最後は諦めてしまった。それだから、不関連性があるようにという風に諦めたんです。それを「実は翻訳者として読者に対して、一種のテクニックですよ」と言い張る。時間の関係で、呉明益さんの作品について少しだけ紹介しましたが、詳しい内容について、皆さん、是非読んでくだいさい。

陳蕙慧:

天野さん、ありがとうございます。訳者としての心得は、とても簡単で分かりやすく紹介していただきました。特に最後に皆さんに本を是非読んでいただくのは、司会者のかわりに言ってくださいました。確かに、今回、国家文化芸術基金会と文訊雑誌社が持ってくださった12名の作家の作品以外、こちらの三名の作家の作品の和訳本も現場で販売されております。是非、取って読んでください。こちらは和訳本を出版してくださった三社の出版の方です。お手元のパンフレットでは、呉明益先生の代表作が紹介されております。、呉先生の作品には三部の長編小説と四編の短編小説、および四冊の散文集があり、他には三冊の学術の著書もあります。呉先生はいま台湾の花蓮にある東華大学華文学科の教授であり、台湾文学の創作に対しても、力を尽くしております。 続けて、1997年から今まで創作を続いている蔡素芬先生をご紹介します。蔡先生の作品には五部の長編小説と六部の短編小説があります。蔡先生は創作に尽くし、特にそれぞれの時代の言葉の表現とその社会構造に対してとてもこだわっています。それでは、創作観について、蔡先生にお話をお伺います。

蔡素芬:

皆さん、こんにちは。作家としてのいつかの考え方を皆さんにお話たいと思います。私はずっと思っていたのは、命って不思議なものであり、私たちは自分の時代にいって、共同の記憶を分け合い、この記憶の中に私たちも特別な経験を持っています。私たちは、その時間という長い歴史の川で、一瞬の火花のようなので、私たちはこの時代に共に生きていくのは、縁ともいえます。小説家として、私が絵描いているのはその時代に対する観察であって、その時代における人々の生活と生き方です。いまの私たちは、一般の洋服を来ていますが、百年前の時代であれば、それぞれの国によって人もそれぞれの服を着ていました。現在の私たちは、先端の武器を持ち、二回の世界大戦があって、世界では混乱の局面もまだ絶っておりません。しかし、テクノロジーは進歩しております。私たちは、テクノロジーに非常に依頼していて、いつでも機行機で遠いところに行き、携帯電話で家族と友たちと連絡しております。このようなことは、百年前の時代ではありえないなことで、即ち私たちの曽祖父の時代では、想像できないことです。テクノロジーの進歩も、私たちが未来についての想像も変わって続けます。テクノロジーが人の生活を変えていく時代こそ、私たちがいる時代で、その時代では、色々な小説のテーマがあります。例えば、戦争の残酷さ、それによる人々の生き別れ、戦後の平和、民主と独裁との対抗、商業の競争、そして男女権力の社会的な構造の変化、ジェンダーへの認識、エコ問題、テロ攻撃など、私たちの時代では、テーマがあり過ぎるんです。この百年近く、人類の生活の中で、大きく変化が起こります。この時代にいて、小説家として、気になるテーマや課題が沢山あります。しかし、その時代にあらゆるテーマや課題があると言うのは、その時代がもたらす残酷さもあります。例えば、この百年近く、世界では二回の世界大戦が起こったことがあって、戦争をテーマとしてあらゆる文学作品があります。私が成長していた台湾の社会では、色んな変化がありました。私の子どもの頃、丁度1960年代でした。その時は、物質生活が裕福ではありません。少女のころは、台湾は経済高度成長期に入りました。青年の時代は、台湾の社会では、とこでもあらゆるチャンスがありました。中年に入って、台湾は中国の経済成長に迫られて、台湾の社会では統一や独立という意識の争いに落ちました。その時の台湾社会は、停滞の状況になりました。停滞というのは、退歩と同じ意味で、なぜならというと、その同時、多くのアジアの国家が成長しているのですから。台湾の多くの人材と産業は次第に中国へ流出してしまって、若い者は台湾でチャンスを見つけることがなかなか少ないです。台湾の若い者が未来を見つけないという状況は、ただこの五十年間に起きたのです。しかし、台湾だけ限らず、国際社会では、同じような状況が起きているのです。

このような社会にいるこそ、この社会現象は創作の材料となります。私はその時代で人の生活の変化をとて重視していて、なぜならば、私たちの生活はこの時代に影響されたのです。ですから、私の第一部長編小説で和訳本の『明月』では、台湾の社会の構造の変化を絵描きました。その社会構造の変化に伴って、人々は生きるために移動しょなければならない、その「移動」は人々の生き方をどういう風に変化させるのでしょうかということを絵描いておりました。この変化から、人の心を色んな面を表現しました。私にとって、小説を書くとき、一番大切なのは人々の内面を表現することです。私が書いたのは、その時代に反応された登場人物の内面です。『明月』のあとでは、二部のシーリス作を書きました。その一つは、既に和訳れた『オリーブの樹』という小説で、もう一つはまだ和訳されていないせすが、『星たちが話している』(《星星都愛說話》)という小説です。この三部の小説では、人々がそれぞれの時代にどう向き合って、どうのような選択を決めるのかという内容を書いております。小説に通じて、私はその六十年間の台湾社会の変化を絵描きたいです。しかし、この三部の小説では、その六十年間の台湾社会の変化を細かく絵描くことができませんので、そのためで、私は他の長編小説や短編小説に通じて、ある時間における台湾社会での人々の生活と感情の変化について絵描きました。

もう一つの長編小説(《燭光盛宴》)では、1949年蒋介石政府が台湾にやってきたあと、その軍人たちがどうやって台湾で生活して生きてきたかのを書いており。登場人物に通じて、当時の政治への批判と台湾人であるアイデンティティに対いして密かに小説の内容に隠しております。物語の下にもっと意味深い書き方は、私が憧れています。物語の下の深い意味を表現するのは、かなりいい挑戦だと思います。私も短編小説の表現方法が好きです。その中にある時間を切り口として、ある時点を濃縮して小説の内面を表現するのはとても魅了的だと思います。短編小説では、いくつかの構造性のところを繋がらせて、物語りの全体感を作り出します。小説家として、この時代に生まれたことはとても幸せなことだと思います。なぜならというと、今の時代を四百年以上さかのぼることができますし、未来を予想することもできますから。作家の想像力には空間や時間からの制限がなく、その自由性の中に、物語を述べる芸術性しかありません。小説というのは、実は文字によって文学を表現する方法で、言葉をいかに洗練させるのは非常に重視しております。その時代に生きて、こいまの生活と感情を言葉で記録することができますが、記録されたものは、過去であったり、未来であったり、いまの時間や空間を越えることができます。ですから、私が小説を書くとき、近代から今の私たちの時代の中に起こった様々な問題を考えています。これは私の考えの背景でもなり、感情の育ちでもあるます。未来の人々にその文字に通じて、この時代の人と創作者の考え方を分かってもらうのは、これは創作の機能の一つであり、それも文字創作の楽しさの一つでもあると思います。それも私が小説を書き続ける理由でもあります。以上です、ありうがとうございます。

陳蕙慧:

ありがとうございます。蔡先生の作品の中の、時代に対しる繊細な書き方、人々の生活の表現の方法、そして広い視点が分かりました。続けて、さき蔡先生が話した『明月』と『オリーブの樹』の和訳本の監修である林水福先生にお話をお伺いしたいと思います。

林水福:

皆さん、こんにちは。林です。さき紹介した『明月』と『オリーブの樹』の日本語の訳者ではありませんが、時間の関係で、これから『明月』を中心として、私の意見を述べたいと思います。その前に、このたび、このような盛大な学会を参加することができ、とても光栄です。感謝を申し上げます。それでは、私が『明月』に対する見方を述べます。この『明月』は、ベストセラーでもあり、ロングセラーでもあります。出版してからいままで、既に十二万冊以上の売り上げに至り、映画化などもされる人気の作品です。この売り上げの数字を比例に言い換えれば、日本では百万冊以上とも言えるでしょう。まず、この作品はなぜか書かれたのでしょうか。物語の感情を訴えたもので、風土や人情を記念する意味は、その他のもの売りはまっさているものでもあります。作者は、何を記念したのでしょうか、それはすでに存在しない、あるいはまもなく消える人や物事などを書き留めるのでしょう。ここから、私は谷崎潤一郎の『細雪』と川端康成のことを思い深いました。谷崎潤一郎は、人生で三度の結婚がします。三番目の妻であり、最後の妻である森田松子と1935年に結婚しています。谷崎潤一郎は森田松子を理想の妻として、彼女を追い求め、『春琴抄』を執筆しました。『春琴抄』の佐助とは谷崎潤一郎であり、春琴は松子です。佐助が春琴に対する恋は、谷崎潤一郎が松子に対する愛の告白ともいえるでしょう。結婚したあと、松子の二人の妹の信子と茂子は姉のところに引っ越して同居することにしました。姉妹三人の睦ましい様子は谷崎を感動させ、その美しい時間を残すために、谷崎は『細雪』を執筆します。日本伝統の文化である、蛍狩りや花見や月見など季節なものをこの本の中に書き込んだんです。もう一つ作品は川端康成の『古都』です。『古都』が絵描いているのは京都です。1961年に文化勲章を授与されたとき、川端は京都を舞台にした動機として京都住民に失われたものを絵描きたかったと述べています。

美しい時間や次第に消えていくものを書きとめるため、谷崎は『細雪』を創作し、川端は『古都』を書きました。この二つの作品は、この文学の代表作であり、文学性を残る名作でもあります。蔡素芬氏の『明月』を書かれ動機や目的も、先ほど述べたように物語の感情を訴え、風土や人情を記念するものでした。『明月』の感情には親子の情、兄弟姉妹の情、近隣の情など、様々の感情があります。明月は幼馴染みに対して恋心が宿われている。心の中の相手こそ、自分が将来を預ける伴侶だと思っています。しかし、明月の両親は息子を治まらなく、小さい明月にはまた頼りはなく、小さいことはできるが、大きなことはまだできないと考え、うちの子供の中、きっちんとできるのが明月だけなんです。その明月をうちに残すための唯一方法は、明月に婿を取られることしかないと考えています。子どもの明月にもし大方が婿さんになって家に入ってくれるなら、うまく行けるのではないかと思っています。しかし、これはただの考えだけで、一人子の大方にそれを直接同意する勇気が出ません。明月は結局、親の情と責任をとるために、慶生との結婚を承諾してしまうのです。しかし、慶生は結婚したあと、ギャンブルに巻きくれ、明月にも暴力を舞い振るいます。明月が苦労をして貯めたお金と結婚するための婚約指輪を賭けことに使ってしまいました。明月は離婚することも考えしますが、慶生は優しさだけが唯一許すことにしてしまい、結局離婚することができません。明月のその人生の中で、嘆き、屈辱、やるせなさなどは、当時の台湾の田舎ではよく耳にすることでした。女性は家のため、親のため、子どものため、自分の恋愛や健康を犠牲したのです。現代から見れば、バカバカらしく、ありえないのかもしれませんが、当時の台湾の田舎の女性の典型であり、女性独のしなやかさやママ強さといった性質を表現されています。『明月』で描く家庭は、女性が支える家庭です。明月もそうであり、両親の世代も長期にわたって家の中のことは、ははが行っています。蔡素芬氏の『明月』の中には多くの本場の閩南語が使われており、田舎の息を存分に表現しています。『明月』のあと、閩南語が混じて書いた小説はこれほとの感じがないようです。これもこの小説の貴重な点だと言えるでしょう。蔡素芬氏の『明月』は考えもなく、台湾文学史の史上の名作だと思うんです。

以下、翻訳者である黄愛玲先生の感想と気付きを引用し、まとめしたいと思います。情状的な中国語の表現と原作のイメージを残す日本語表現にもと、原作を特独をとこまでに残すべきか、そして台湾語tp北京語との違いをいかに渡すべきかと思った。最初から作品の世界に引き込まれた。まったく同じ時代の生きたわけないのいに、思わず自分の今までの人生を照らし合わせ、一体現を超えながら、翻訳の文章を書いていた。何度も主人公やその家族の人々の人生に思わせる。実は翻訳の作業をしながら、何度も涙をした。誰も少なかれ経験数であろう、嘆き、やるせなさを、そのすべでを言葉に表現していて、それをうまく日本語で再表現する喜びを感じたし、悲しみもあった。この翻訳の作業を携わったことは、本当に心から嬉しくと思っています。以上です、どうも、ありがとうございます。

陳蕙慧:

ありがとうございます。この話から、私たちが分かったのは、蔡先生がその小説の創作することにおいて、とても冷静な表現をして、大きな時代を絵描きながら、深いところも表現しようと思います。その壇上にいらっしゃる三名の作家の方の共通の特点とは、文字を通じて、記憶と時代を記録して保存するという点です。記憶を保存するのはやはり、読者の皆さんにこの三名の作家の作品を読んで分かってもらいたいと思います。本日のイベントでとてもよかったと思うのは、この三名の作家と翻訳者の方は共にそれぞれの創作そして翻訳に通して、自分が文学への考え方を伝えることです。もう少し聞きたいでさが、時間の関係で残念ですね。では、どうやってもっと聞けるのでしょうか。それは、もちろん、国家文化芸術基金会と文訊雑誌社がもっとこのような読者と作家との交流の機会をつくてくだされば、よいと思います。あらゆるの文学と言葉の交流はやはり、私たちの境界線をいかに越えることだと思います。これは私たち今回のイベントの目的であり、将来に努力する方向です。その素晴らしい作家たちの作品は、どうすれば世界に発信できるのがとても難しいことだと思います。私たちにとって、東京はとても大切な場所なので、今回はこちらにやってきました。こんなに素晴らしい作家がたくさんいらっしゃいまして素敵な作品もたくさんありまして、この作家たちと作品を推進するために、私たちにはもっと力と支えが必要です。私たちは、こうして一緒にここに集まっているのは、一種の推進の力でもあると思います。私はこの場で、壇上にいらっしゃる三名の作家の方と、今回のイベントを主催してくださった方々を代表して、この日曜日の午後にこちらに来て下さった皆さんにお礼をお申し上げたいと思います。この晴れた天気から、私は、東京が私たちを歓迎しくださったと思うんです。ありがとうございます。これから、ブックフェアがありまして、販売もしております。もし皆さんのお手元に本を持っていれば、三名の作家の方と、翻訳者にサインしてもらい、そして一緒に記念写真を撮影することができることは、とても素晴らしい思い出になります。ありがとうございます。